『風の歌を聴け』とは何か

 5年前に書いた『風の歌を聴け』のレポートをリライトしてみました。

 なぜ僕は小説を書くのか、『風の歌を聴け』というタイトルは何を表すのかをテーマに、だいたい1万字くらいで書いています。作品を読んだことがないと訳がわからない文章なので、読んだことがある方ぜひ……! (最近Kindleも出ましたね)

※noteに全く同じもの載せたのですが、noteは字が大きすぎて読みにくいのでこちらにも転載しました。

 

 ちょっと余談なのですが、これを書きながら感じ入ったのは、齢二十四にして村上春樹が何を考えて小説を書いているのかということが徐々にわかるようになってきたということです。村上春樹の本に出会った中学生の頃から人生歩んできたことが確実に影響しているし、どうやらデビュー作からずーっと作品の根底に横たわるテーマがあるだろうことがわかりました。結構、これからの自分の人生に必要な先人の考えだろうという気がしていて、虫食い的にしか村上春樹の作品を読めていないので、出版された順番とかも意識して、彼の考え方がどう変容していったのかということを、もっと知っていきたいと思いました。

 

というわけで、本編に入ります。

 

■導入

 この作品はデビュー作に相応しく、小説を書くことについての物語である。というか、読み始めの1章はすべて、書くことについての僕の考えで埋め尽くされているので、当たり前と言えば当たり前だ。

 

 この文章では、なぜ「僕」は小説を書くのかということに迫りながら、その過程で『風の歌を聴け』というタイトルは、どういう意味なのか、ということも解き明かしていく。

 「僕」は本の冒頭で小説を書くことについて、こんな風にいっている。

 

うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。(p8)

 

 なぜ、彼は救済されなければならないのか、救済されたときに「象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう」というのは、どういうことなのか

。それを明らかにするためには、まずは彼の人生を追いかけていく必要がある。

 

■僕の年表

 「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る。」(p13)とあるが、その時期を中心に僕の人生の様々な断片が語られる。それらは必ずしも明確にいつのことだったのかが示されてはいないが、何年前のこと、とか、19〇〇年のこと、という作中の記述やヒントを丁寧に拾うと、いつ何がどういう時系列で起きたかを整理することができる。

 

 普段、作品を楽しむにあたって、そのような時系列を確かめて並べなおして、パズルのように組み合わせる考察はほとんどしないのだけれど、この小説に限っては、作中に示された細かい数字に意味があると考えるので、それを活用してこの物語を解き明かしていく。

 

 ちなみに、このパズル的要素については斎藤美奈子の『妊娠小説』に詳しくあり、こんなことが書かれている。

 

知られているように、テキストは「1」から「40」まで四十(途中の⭐︎印まで入れれば五十三)の断片を整理し、配置しなおさなくてはならない。(中略)しかし、語り手自らが〈デレク・ハートフィールド〉の言にかこつけて、〈小説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるものでなくてはならない〉と指示しているのはなぜか。さらに〈翌日の朝〉〈三日目の午後〉といった日付けをはじめ、やたらと具体的な数字が頻発するのはなぜか。『風の歌を聴け』のテキストは、読者に「パズルの読解」をこそ要求している。「数字」こそ、その最大のヒントとして考えるべきなのだ。

 

 わたしも、それに倣って数字を元に、彼の半生を下記のような年表にまとめてみた。

 

1948年12月24日生まれ 生まれる。ひどく無口な少年だった。

1963年 14歳 初めて女の子とデートをした。※1

4月の半ばから突然喋り出し7月の半ばまで喋り続ける。

そのあと、無口でもおしゃべりでもない平凡な少年になる。

    この夏、ハートフィールドの本と出会う。

ケネディが殺された年)

1966年 17歳 叔父の死。初めて女の子とセックスをする。

1967年 18歳 大学に入り、鼠と出会う。(1人目の女の子と別れる)

1968年 19歳 新宿騒乱などに参加していた(ヒッピーの女の子に出会う)

1969年8月15日~1970年4月3日の間 自分のレーゾン・デートゥルについて考える。

1970年4月4日 3番目に寝た女の子が死んだことを知る

1970年 21歳 8月8日~8月26日の間のことが描かれる。

1978年 29歳 『風の歌を聴け』を書いている。(もちろん、この作品を書いているのは村上春樹だが、作中の僕が書いている体のため、このように記載)

 

※1 デートの際、エルヴィス・プレスリーの映画を観て、こんな歌詞の歌だった、という記述がある。その曲は『グッドラックチャーム』という曲で、映画は1963年4月25日日本公開の『ガール!ガール!ガール!』だったようなので、喋り出したごろと丁度前後くらいにデートをしていると思う。

※2 ヒッピーの女の子と出会った時、新宿駅構内で催涙ガスに目をやられているので、新宿騒乱(1968年10月21日)の現場にいたと思われる。

 

■存在理由

 前述の年表に並べてある僕の身に起きる出来事と、僕自身の変化は「存在理由」というキーワードを通して説明していくことができる。

 まず作中で、存在についてどのように言及されているのかを確認しておこう。本考察で指針にしていくのは、幼少期の僕が連れいかれた病院の、主治医が話した言葉である。

 彼は、「もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ(p29)」と言った。これに対して、『風の歌を聴け』を書いている29歳の僕も「医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終る。パチン……OFF。(p31)」という風に、この発言を肯定している。

 つまり、僕という人間がこの世に存在するためには、彼が何かの表現をしている必要性がある。そして、彼は様々な経験を通してその表現の方法を変化させていく。それを一つずつ確かめていこうと思う。

 

■14歳

 彼は無口な幼少期を過ごし、それは彼が14歳の夏を迎えるまで続いた。彼は言葉を発するという表現をしなかったがために、その年齢になるまでは存在していなかった。

 そんなことはない、だって彼は生きていたではないか、と思うかもしれない。でも、彼は存在していなかったのだ。なぜなら、この作品には「何も表現しない=存在していない」というルールがあるからだ。口を閉ざして何も表現しないということはつまり、存在していない、という状態なのだ。

 

 その彼が突然喋り出した年は、彼が初めてのデートをした年だった。恋をしたときの人の心情を考えてみてほしい。恋のさなかというのは、相手のことが気になるあまり、自意識というものが強まらないだろうか。この、自意識の芽生えによって彼は自分の存在を初めて認識したのである。

 

 意識したときに、初めて存在に気づくなんてことがあるだろうか? と思うかもしれないが、この考え方は作品の中に別の形でも出てくる。

 21歳の僕が4本指の女の子に向かって、「小指のないことは気になる?」と聞くと、彼女は「ええ、手袋をつける時にね。」と答えるのだ。そして、それ以外には大して気になることがないとも言う。つまり、手袋の小指部分があることで、小指の存在の有無に気を傾けるのである。

 僕も同様に「自分のことを意識する他人」、という手袋の小指部分に該当する存在があって初めて、僕の存在というものに意識を傾けるのだ。

 

 彼はその意識をきっかけに話し出した。それは、「何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じ」というルールの中で、自分という存在に気付いてしまったからには、表現をしなければならないからに他ならない。

 

 そうして語り続けた彼だったが、7月の半ばに熱を出して平凡な少年になる。では、こちらの変化はなぜ起きたのか。

 この14歳の夏、デート以外の大きな出来事として、デレク・ハートフィールドの小説に出会ったことがある。彼はこの本との出会いを期に文章を書くようになる。彼は喋る代わりに文章を書くという表現方法を手に入れ、平凡な少年に戻ったのだ。

 

■17歳

 そんな彼に次なる変化が訪れたのは17歳の時だ。この歳に経験したことによって、彼は自分の存在についての考えを改め、心に思うことの半分しか口に出すまいと決心をした。

 

 彼がこの年に経験したことは、叔父という近しい人の壮絶な死と、はじめてのセックスだ。彼は、生まれることと死んでいくことに、直に触れる体験を初めてする。

 この物語において生(性)と死は、私たちがあまりにも大きな宇宙のちっぽけな一部であることを実感させるものとして扱われている。

 1970年の夏に、僕と4本指の女の子が語り合うシーンで、「何故人は死ぬの?(p130)」という問いが発せられるのだが、彼は、人間の個体の生命はあくまで広大な宇宙という生命の一部でしかなく、宇宙の進化についていけないから僕らは死ぬのだという返事をする。

 そのように考えると、私たちは世界が前に進む為のパーツであり、生まれ、生み、死ぬことによってその流れをつないでいくことこそが存在理由となる、と考えられるだろう。3番目の女の子が彼のペニスを「レーゾン・デートゥル(存在理由)」という風に呼んだのは、ペニスが産むことにまつわるものだったからだ。

 

 このように、あまりに大きな宇宙の中の自分という小さな存在に気付いた時、それはつまり叔父の死と初めての性行為を体験した高校の終り頃なのだが、彼は「心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した(p109)」のである。彼は「表現し、伝達すべきことが失くなった」と判断し「パチン……OFF」という行動を取るのである。

 

 作中に「ON」と「OFF」の見出しに区切られて、ラジオのオンエアー時とオフエアー時の音声内容が交互に出てくる部分がある。電波に乗せて語ることに比べて、「OFF」の見出しが付いている裏側の言葉は、暑いだとか飲み物がのみたいだとか、ぼやきばかりで電波にのせる意味のない取るに足らない事ばかりだ。

 つまり、彼の話す内容もまた宇宙の規模から照らして考えれば、あまりに取るに足らないものであり、表現し伝達する価値がないと考えた訳なのだ。そうして、彼は口を閉ざした。

 

■大学生時代と学生運動

 14歳の時ぶりに口を閉ざすとなると、「何も表現しない=存在していない」のルールにのっとれば、彼は何か新たな表現を選択する必要に迫られるはずである。

 彼は大学に入り、学生運動に関わることになる。大学で出会った鼠もまた、学生運動に参加をしていた。僕は自分自身はちっぽけすぎて語るに足らないと考えたが、それに比べ社会のことについてならば、まだ語る価値があると考えたのだろう。こうして彼は学生運動という、新たな表現方法を手に入れた。

 

 しかし、鼠が21歳のとき、こう言ったように、彼らは学生運動という表現を通して社会について語ることすらもできなくなっている。

 

「大学には戻らない?」

「止めたんだ。戻りようもないさ。」

鼠はサングラスの奥から、まだ泳ぎ続けている女の子を目で追っていた。

「何故止めた?」

「さあね、うんざりしたからだろう? でもね、俺は俺なりに頑張ったよ。自分でも信じられないくらいにさ。自分と同じくらいに他人のことも考えたし、おかげでお巡りにも殴られた。だけどさ、時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。俺だけは戻る場所がなかったんだ。椅子取りゲームみたいなもんだよ。」(p113)

  

 はっきりと学生運動という言葉は出てきていないが、「お巡りにも殴られた」「自分と同じくらいに他人のことも考えた」という言葉から、学生運動について話していると分かる。

 共に学生運動をやっていた学生は、社会の為の運動をやめ、自分自身の人生に戻っていくが、僕と同じように、鼠にはその戻るべき自分自身の人生には存在理由がなかったということだろう(鼠は自分の実家がお金持ちであることを嫌っていた)。

 

 僕も、4本指の女の子に向かって機動隊員に叩き折られた前歯を見せながら、「僕は僕だし、それにもうみんな終ったことさ(p88)」と言っていることから、21歳のときにはもう学生運動をする気持ちがないということがわかる。

 こうして、僕は表現方法をまた失う。

 

■大きな宇宙の中のちっぽけな存在

 学生運動の中で社会について語ることを辞めれば、僕や鼠に残されるのは広大な宇宙の一部を構成するちっぽけな自分自身のみである。

 そのとき、自分の存在意義を守る行動、それは生殖活動なのである。なぜならば、それが大きな宇宙を前に進めるための1パーツとしての役割を果たすことにつながるからだ。

 しかし、彼らはその宇宙の大きな物語からもはじき出されるような経験を味わう。

 

 まず、僕は三番目に寝た女の子の死に直面することで、大きな物語からはじき出される。三番目に寝た女の子は彼のペニスをレーゾン・デートゥル(存在理由)と呼ぶ女性だ。彼女が存在し、彼女が彼のペニスを存在理由として認識していたならば、彼は大きな物語の一部で居られただろう。

 また、彼は彼女といたころ「全ての物事を数値に置き換えずにはいられない(p93)」という癖に取りつかれていた。

 

その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになった。(p93,94)

  

 自分自身を数値に置き換え、それを伝えて自分の存在を確かにしようとしていた彼だが、それを伝える相手がいなければ、それは何の意味もないものである、と気づく。

 彼女が死んだことで、僕は大きな物語の一部ではいられなくなり、伝える相手もいなくなり、存在理由の確かさをも失った。

 

■鼠の物語

 それに対して、鼠はどうだっただろうか。この『風の歌を聴け』の中で僕が描いた1970年の夏の期間、表向きにわかりやすく描かれてはいないが、実は鼠は自分が妊娠させた女の子の堕胎を経験している。その女の子とは、僕がジェイズバーのトイレで出会った4本指の女の子である。

 

 これについても、斎藤美奈子の『妊娠小説』に詳しくある。斎藤は、4本指の女の子と鼠の間には関係性があったことを「ジョン・F・ケネディー」というキーワードを元に紐解いていく。「ふたりが恋人どうしであったことも、妊娠問題でもめていたことも、「僕」はうすうす察知していたはずだ。知っていて読者に隠した、のである」という風に指摘している。

 

 確かに、4本指の女の子が飲酒を再開したり、旅行に行くふりをして中絶手術を受けようとしている(彼女は僕に旅行ではなく手術だったと打ち明けた)時期に、いつもビールしか飲まない鼠がビールを飲まずにジム・ビームのロックを飲んだり、1週間ほどひどく調子が悪かったりしていて、どうやら彼らの間には関係性が存在するのだとわかる。

 

 鼠も自分の子供の中絶を経験して、生殖というものを通じた、宇宙の一部としての存在理由を失うことになる(もちろん、これはこの作品が生殖できなければ存在してはならないというメッセージを発しているわけではないです。最後まで読むとわかります)。



■人生の不毛さ

 さて、ここまでが話の中心となっている21歳の僕(ときどき鼠)の話だった。ここからは、一度小説を書くことや僕や鼠の人生観を通して、29歳の僕が小説を書くに至るまでを、追いかけていく。

 

 ここまでの僕の人生が示しているのは、人生は不毛で空虚であるということだ。僕は、14歳の頃から存在理由について、考えを巡らせてきたことをこのように表現している。

 

15年かけて僕は実にいろいろなものを放り出してきた。まるでエンジンの故障した飛行機が重量を減らすために荷物を放り出し、座席を放り出し、そして最後にはあわれなスチュワードを放り出すように、15年の間僕はありとあらゆるものを放り出し、そのかわりに殆ど何も身につけなかった。(p10,11)

  

 この言葉を語る僕は29歳なので、彼は15年前、つまり14歳からの人生のことを、色々なものを放り出すと形容したのである。ハートフィールドも同様の人生観を語っている。

 

人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきりの空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。(p119)

 

 つまりこれは、人間は自分の存在理由を自ら否定していき、ついには自分に存在理由がないのだという境地に達してしまうということを示している。

 ハートフィールドは、「一人の人生の誕生から死までを丹念に順序どおり描いて」いる『ジャン・クリストフ』にその「すり減らし」が記述されていると言い、その情報量の厖大さと「宇宙の観念」を評価する。

 そして、ハートフィールドの言う「宇宙の観念」とは「不毛さ」のことだと僕は言う(p120)。つまり、生まれてから死ぬまでの記録はそれが丹念に描かれ厖大であれば、不毛であるという訳なのだ。

 

 これを僕の人生に当てはめて考えてみる。すると、彼は17歳の時に生と死を経験し、宇宙の進化に対する自分の人生のあまりのちっぽけさに気がつく。「宇宙の観念」に気付いた瞬間である。

 気付いたからこそ、彼は学生運動に参加したり、3番目の彼女と関係を持ち、彼女との間に自分の存在理由を築こうとするのだが、それらはことごとく打ち破れ、挫折し、彼に残されたのは大きな宇宙の摂理の中で、あまりにもちっぽけな、存在理由のない自分の人生だったのである。そのように、存在理由がすり減らされてしまった彼の人生とは、彼にとって儚く不毛なものなのだ。

 

■自らくびれる

 人生が不毛であるという考えのために、この物語には自死という手段が色濃く影を落としている。つまり、結局は死ぬのだから、空っぽの人生を生きるのならば、死んでしまえばいい、という考え方だ。僕はジェイズバーで鼠と話しながらこのようなことを言っている。

 

「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。

「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」(p17)

 

 鼠は、自分自身が50年は生きることを前提にしている。しかし、僕はそうではない。結局はみんな死ぬ、ということをどう捉えているのだろうか。それは、3番目の女の子が自殺した半月後に彼が読んでいたミシュレの「魔女」の引用から読み取れる。これは魔女裁判の刑を執行する側が発している言葉だ。

 

私の正義はあまりにあまねきため、先日捕らえられた十六名はひとが手を下すのを待たず、まず自らくびれてしまったほどである。(p82)

 

 この引用に対して、僕は「私の正義はあまりにあまねきため」の部分がなんとも言えずいい、と評する。魔女裁判での正義はつまり、捕らえられた人は全て魔女で、すべてを殺すということに他ならないだろう。つまり、正義はあまりにあまねき、というのは、「でも結局はみんな死ぬ」という状況だ。その状況下で自らくびれたということだ。

 

 3番目の女の子も、50年は生きなきゃならんことに耐えられなかったのだろうし、僕は彼女の死に立ち会うことで、そういう現実に面と向かわなければならなかった。彼は21歳の夏の時点で、人生の不毛さのあまり自死をするということも、一つの選択として認識をしていたのだ。

 

■僕と鼠の歩んだ道

 存在理由をすり減らし、不毛な人生に相対するという局面に立ったとき、僕や鼠がとった行為は、文章を書くことだった。そして、彼らが自らの存在理由を守るためには、もう話せなくなった自分のことでも、社会のことでもなく、宇宙自体について語ることのみが残されていた。

 しかし、宇宙自体を表現するということは、非常に難しいことだった。その難しさを目の前にしたとき、僕と鼠はそれぞれに異なった小説との向き合い方を見せるのである。

 なぜ、二人が異なる方法を選択したのか、二人はどのような方法を選んだのかということを、これから明らかにしていく。

 

■文章を書く

 宇宙について語ることがなぜ難しいのか。僕は小説の冒頭部分で文章を書くことについて、このように語っている。

 

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんなに長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。(p12)

 

 ハートフィールドの言葉によれば「自分と自分をとりまく事物との距離を確認すること」が、文章を書くことであり、その行為に必要なものこそが「ものさし」である。

 つまり、ある対象について書くために、その距離を測ろうとするとき、まずはその対象を認識しなければならない訳だが、僕はそれができないのだ、という。だから距離も測れない。つまり、その対象について書くことができない。

 

 宇宙について語るためには、宇宙を認識する必要がある。しかし、宇宙はあまりに大きいが故に、その全体を把握することは難しく、それを書こうとすることは非常に難儀なことなのである。

 

■自分自身のために書くか、蝉のために書くか

 このような、宇宙を書くことの難しさに対して、鼠は奈良の古墳を訪れたエピソードを話しながら、自分のスタンスを明らかにする。

 彼は「自分自身のために書くか……それとも蝉のために書くかさ。」という。鼠にとって理想は蝉のために書くことであり、彼はそこを目指そうとする。

 

 自分自身のために書く、蝉のために書く、とはどのようなことか。鼠は古墳を訪れたときのことをこう語った。

 

もちろんどんな墓にだって意味はある。どんな人間でもいつかは死ぬ、そういうことさ。教えてくれる。でもね、そいつはあまりに大きすぎた。巨大さっていうのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちまう。実際の話、そいつはまるで墓には見えなかった。山さ。濠の水面は蛙と水草でいっぱいだし、柵のまわりは蜘蛛の巣だらけだ。

 俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とても言葉じゃ言えない。いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですっぽりと包みこまれちまうような感覚さ。つまりね、蝉や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ。(中略)

 文章を書くたびにね、俺はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。(p114-115)

 

 古墳は墓だから「どんな人間でもいつかは死ぬ」という意味を持つけれども、あまりに巨大であるから墓であることを忘れさせ、むしろ幾多の生命を内包するものとして存在をしている、と鼠はいう。

 つまり古墳は宇宙を象徴している。僕は3本指の女の子に、宇宙の進化についていけないから生き物は死ぬと言う。つまり、宇宙は「でも結局はみんな死ぬ」ことを思い出させる存在だ。そしてだからこそ、宇宙はあらゆる生命を含んでいる。

 

 そんな宇宙のことを描く時に、死ぬ、ということよりも、複数の生命が一体になって流れていくことを書く、というのが蝉のために書くということだ(ここで大事なのは、鼠は蝉ではないということだ)。

 これは、古墳にいる蝉の視点から書くのではなく、「蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風」を包括して観て、それらを神の視点のような位置から書くのである。

 

 その反対の自分自身のために書くというのは、宇宙に内包されたある一つの生命の視点から書くということである。ある生命の内側から見れば、自分がものさしで測ることのできる宇宙とは、自分がこの世に新たな生命を増やすことと、自分がいつかは死ぬこと、そして自分自身の人生が不毛であることだけである。宇宙全体については描くことができない。

 

 つまり鼠は、あえて自分がものさしで測ることのできる生や死ではなく、神の視点に立たなければ見えない景色を、書きたいというのである。

 

■蝉のために書くことの困難さ

 鼠は蝉のために書きたいと語った直後に、「何も書けやしない」と言う。認識できないものを書くことはできないのだから、書けないのは当たり前である。

 しかし、鼠は書けていないという言葉に続けて、「汝らは地の塩なり。塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき。」と言う。

 これは、「マタイの福音書」第五章十三節にあるイエスから弟子への言葉である。デジタル大辞泉によると「神を信じる者は、腐敗を防ぐ塩のように、社会的・人心の純化の模範であれとの意。模範や手本の例え。」とある。つまり、イエスは弟子に、模範であれと言っているわけだ。

 

 鼠にとって模範や手本に当たるのは、蝉のために書かれた文章である。つまり「地の塩なり」と鼠が言ったのは、彼の自分に対する戒めなのである。書くことは難しくとも、蝉のための文章を書けるようになれ、という心もちだ。

 だから、作中に出てくる鼠の小説と思しき文章は、終始一人称で語られる本作品に対して、数少ない三人称(神の視点)の文章であるし、「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ(p26)」と説明される。鼠は蝉のために書くことを実践しているのである。

 

■自分の意志の行方

 鼠は蝉のために書くことを選んだが、僕はそれを選ばなかった。その選択の差には、それぞれが持っているどうしようもないことを前にしたときの、考えの違いが根本にある。

 僕と鼠は、古墳と蝉の話をした同じ日に、虫歯と飛行機の話をしており、そこで二人の考え方の違いが明らかにされる。

 

 まずは、鼠の虫歯の問答。鼠はどうしようもできないことの例えに「虫歯」を挙げ、虫歯が痛んだときに誰か慰めてくれたって痛みが止まるわけではないとわかると、自分自身に腹を立てるという。そして、自分自身に腹を立てない奴にも、無性に腹が立つという。

 つまり、鼠はどうにもできないような事象を目の前にしたときに、自分自身がどうにかする、という可能性を視野に入れ、自分に原因を見つけ、自分に腹を立てる。

 しかし、この言葉に対する僕の言い分、つまり飛行機の例えはこうだ。

 

でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。(中略)だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。(中略)だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ? 強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。(p117)

 

 彼は、故障した飛行機に乗り合わせている、と例え、自分は原因に関与できない、ただ何もできない無力な存在として、自分を考えているのだ。強い人間なんてどこにもいない、振りができるだけというのは、どうしようもない状況を自分の力でなくすことのできる人間などおらず、人間とはただそういうものに翻弄され、ものごとをコントロールすることなどままならない存在なのだということだ。

 つまり、僕は自分の身に起きたことに対して、怒りの感情などを抱えることはなく、ただ深い諦めの中にいる。これが、鼠のどうしようもないことの認識との差である。

 

 どうしようもないこと、は、世界を認識することは限りなく難しいことであるということと、世界について書くという、二つの対立する概念を、両立させようとすることであり、宇宙の流れに流される自分自身のことである。

 だから、僕は蝉のために書くことは諦めるし、宇宙の流れには一方的に流されるだけであり、自分自身の力のなさに空虚な気持ちを抱えるのである。

 

■自分自身のために書く僕

 そういうわけで、僕は自分自身のための小説で宇宙を描いている。だからあくまで、物語は僕の口から、一人称で語られるし、自分の目線から宇宙を語るための唯一の方法である、性と死の描写をしつこく繰り返す。彼は、自分がものさしで測れる範囲の宇宙について、書くことにしたのである。

 

僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。(p12)

 

 このノートというのは「まん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた」ものである。セックスも、死も、そのリストの中の一つである。鼠が理想を目指しているのに対して、僕は諦めてリストを書いている。

 

 僕と同じように、人生を不毛なものと認識していた作家であるハートフィールドは、僕と同様に蝉のために書くことを諦めていた。

 だから、彼の最大のヒット作である「冒険児ウォルド」では、ウォルドは3回死に、5千人もの敵を殺し、火星人の女も含めて全部で375人の女と交わっている。

 そして、僕のリストと同じように、「小説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるものでなくてはならない(p119)」という持論を持っていた。

 

 ここからは、そのハートフィールドと僕を比べていくことで、一番最初に掲げた『風の歌を聴け』というタイトルが含む意味を明らかにしていく。

 

■不毛さを描く

 生殖と死を描く以外に、もう一つ宇宙を表現する方法があった。それは、不毛さを描く、という方法である。なぜなら、性と死以外で宇宙の広大さを実感できるのは、宇宙があまりにも大きく、自分の存在があまりにも小さく、その人生もまた空っぽで空虚であるという実感だけだからだ。

 

 ハートフィールドは、代表作についてこのようなことを問われている。

 

「あなたの本の主人公ウォルドは火星で二度死に、金星で一度死んだ。これは矛盾じゃないがですか?」

ハートフィールドはこう言った。

「君は宇宙空間で時がどんな風に流れるのか知っているのかい?」

「いや、」と記者は答えた。「でも、そんなことは誰にもわかりゃしませんよ。」

「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」(p120)

 

 この、誰もが知らない、本当かどうかもわからないでまかせを書く、ということそのものが、ハートフィールド流の不毛なものを描くやり方だったのだ。

 嘘ばかりが書いてある小説は、真実ではなく嘘を語るからこそ、不毛であり、不毛であることで、宇宙を描いていて、価値がある、というわけである。

 

 僕、というか、村上春樹もまた、その法則に則って、この作品に1つの大きな嘘を仕込んでいる。それはハートフィールドという作家の存在だ。

ヘミングウェイフィッツジェラルド、そういった彼の同時代人の作家に伍しても、ハートフィールドの」というように、実在の著名な作家と名前を並べてハートフィールドのことを語ることで、作者は明らかに読者を、「ハートフィールドは実在の作家である」という誤認に陥れようとしているだろう。

 極め付けは、本書の後書きである。事実のような話ぶりで、村上はハートフィールドとの出会いや、彼の墓を訪れた思い出話を書いているのである。

 

 実在だと思っていたある一人の人物が、全くの嘘で彼の存在はなかったのである、という空虚さそのものが、宇宙における一人の人間の空虚さを小説で表現する方法だったのである。

 

■夢をみること

 しかし、ハートフィールド自身も「蝉のために書く」ことをやったことがある。その作品は、彼の作品のなかでは異色とされる「火星の井戸」である。

 その主人公は、宇宙を感じさせる井戸に潜る。深い深い井戸を抜けたとき、なんと15億年もの時間が流れていた。そこで語りかけてきた風が、「25万年。たいした時間じゃないがね」だとか、「もっとも、言葉なんて私には意味はないがね」とあらゆるものに意味を見出さない態度を見せているが、彼は「何を学んだ?」と、風に聞き返す。

 彼は、言葉や25万年という時間が意味がないと切り捨てられるような規模の価値観を前にして、自分自身の規模の視点を切り捨てることができず、「何を学んだ?」と聞いてしまうのである。蝉の視点を前に、彼は自分自身の視点を捨てられなかったということだ。そして、そのギャップに彼は耐えられず、自分の頭に向かって引き金を引いてしまう。

 

 彼の自殺方法は、ハートフィールドが考えていた自殺の方法と同じ方法である。ハートフィールドは、小説を持ってして不毛さと戦っていたが、やはり宇宙の不毛さというものに直面し続け、宇宙を描くという不毛な戦いを続けたことで、それに耐えきれず自死をしてしまうのであった。

 

 ハートフィールドの墓碑には、彼の遺言の指示によって「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」と書いてある。これが、彼が自死を選んだ理由である。

 この墓碑の言葉を読み解くためには、僕の祖母が語った「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない(p11)」という言葉が鍵になるだろう。

 夢、とはなんだろうか。作中に夢について言及した文は以下の二つがある。一つ目は、僕の祖母が亡くなったときのこと。

 

彼女が間抱き続けた夢はまるで舗道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去り、後には何ひとつ残らなかった。(p11)

 

もう一つは、僕が小説を書き始める直前の言葉。

 

幸せか? と訊かれれば、、だろうね、と答えるしかない。夢とは結局そういったものだからだ。(p149)

 

 つまり、夢とは空虚な人生の中身のことだ。なくても変わらないような人生のなかで、人生とは夢のようなものなのである。ハートフィールドは、夜の闇の深さを持っていたがために、夢さえも見ることができず、自死を選んだ。

 

■風の歌を聴くとは

 さて、ここでようやく、本題にたどり着くのである。「風の歌を聴け」とはどのようなことだろうか。

 この物語で一番大切なのは、ハートフィールドと同じ考え方をしていた僕が、29歳で自死を選ばずに、小説を書くことを選ぶということなのだ。ハートフィールドは夢を見ることができなかったから死んだ。そして、僕は夢を見ることを選んだ。だから、僕は生き延びている。

 それが、「象」についての、彼の言葉に現れている。

 

弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。(p8)

 

 これは、彼の「僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない(p7)」という言葉と紐づいている。

 性と死と空虚という自分の視点からの宇宙が書けたとしても、全くの神の視点から観た宇宙は書けないかもしれない、という例えがここに乗っかっている。

 つまり、僕が蝉のために書けることが「象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう」ということであり、ついにその時に、僕は宇宙を語らなくては自分の人生はパチンOFFだ、という観念から救済されるのである。

 僕は、29歳で小説を書き始める時点で、自分自身が救われる可能性というのを認識している、つまり夢を見ることができているから、死ななかったのである。

 

 では、「風の歌を聴け」というのはどういう語りかけなのだろうか。

 風、とはこの物語において、私たちを包み込んでいる宇宙のようなものである。

 鼠の言っていた「蝉や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ」という言葉から、様々な生命が一体に流れていくイメージがわかるだろう。

 ハートフィールドが描いた異色の物語にも風は出てきた。そこでは、風は「宇宙の創生から死まで」を漂うものである。つまり、風は多くの命が生まれて死んでいく間を超えてなお吹き続けるものである。

 

 4本指の女の子は自分の不遇な人生を語りながらこう言うのだ。

 

「(略)ずっと嫌なことばかり。頭の上をね、いつも悪い風が吹いてるのよ」

「風向きも変わるさ。」

(中略)

「何度もそう思おうとしたわ。でもね、いつも駄目だった。人も好きになろうとしたし、辛抱強くなろうともしてみたの。でもね……。」(p140)

 

 これは、僕が言っていた飛行機の考え方に近いだろう。彼女は風の中にいるだけで、その風の方向は変えることができないのである。飛行機の乗客が飛行機の墜落をとめられないのと同じである。

 

 そのような中で、「風の歌を聴け」というのはこの宇宙の流れに耳を澄ませて、掴みようのないはずの宇宙を、ものさしで測ってみようとしろ、ということなのだ。つまりそれは、僕が夢を持って、鼠的な描き方をしようとしていることと、同じなのである。

 

■まとめ

 『風の歌を聴け』というのは、存在意義を失い続ける人生だったけれど、小説を書くことを通して、自分の人生に辛うじて希望を持って、死ぬことは免れるという物語なのだ。

 

■おまけ

 今年、2020年は無力感に苛まれる年だったと思う。それこそ、僕のように、我々は飛行機の中にいてただ墜落することを食い止められず、受け入れるしかないのだという気分になることがしばしばあった。また、その反動でか、我々の行動によって物事を変えていくのだというエネルギーにも満ちることがあったが、さらにそれに対する疲弊の波みたいなものもたくさん感じた。

 どうしようもなさとか、無力感というものを、今年もそうだし、例えば3月11日を経験したこと、もっと小さなことでも他人と面と向かってみることをしてきたからこそ、中学生のときにはわからなかった村上春樹の考えが、わかるようになってきた。

 『風の歌を聴け』は限りなく後ろ向きな姿勢で、辛うじて前向き、という作品だと思うのだけれど、既に世間で指摘されているように、村上春樹の作品に内包される彼の考え方というのは、徐々に変化している。まだ、わたしは『風の歌を聴け』の絶望感が掴めてきてから、他の作品を意識して読んでみてはいないので、ここから彼がどのような答えを導き出していったのかということは、すごく興味があるし、自分の人生の糧となるだろうなと思う。